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加藤清正公が天下の名城・熊本城を築かれてから400年余りの時が流れました。
古くからこの地に根付いていた我ら千葉一族は、大恩ある清正公の命に従い、
その間熊本城とこの熊本の地を歴史の影より見守ってまいりました。
これまで幾度となく訪れた熊本城存亡の危機の際には、決して表舞台に出ることなく、
またあらゆる手段を用いて敵対勢力を排除してきました。
しかし、それも私の代で幕を下ろすつもりでございます。
なぜなら皆様のように自らの意思で熊本城を守り、
後世へ残していこうという 意志をお持ちの方々がいらっしゃるからです。
そして、400年余にわたる長きお勤めを締めくくる最後の仕事として、
清正公よりお預かりしておりました門外不出の書を、皆様だけに公開いたします。
その書には、歴史上存在するはずのない莫大な軍資金の隠し場所が記されております。
それらを見つけることができれば、熊本城のみならず日本中の貴重な文化財保護などにも
役立てていただけるはずです。
では、その軍資金について少し説明しておきましょう。

清正公が熊本城の築城を開始してから2年後の1593年(文禄2年)、
太閤・豊臣秀吉公の嫡子・秀頼様が誕生いたしました。
天下人として権力の絶頂にあった太閤様でしたが、年齢からくる衰えや台頭著しい徳川家康の存在などもあり、秀頼様の将来に対して内心強い危機感を抱いておいででした。
そこで、最も信頼されていた清正公に秀頼様と豊臣家の未来を託そうとお考えになったのです。
密命を受けた清正公は、築城途中であった熊本城の巨大要塞化に取り掛かります。
これは秀頼様に万が一のことが起きた場合、熊本城に迎え入れ、徳川とことを構えるためでした。
ゆえに熊本城には「昭君の間(※1)」や「小天守増築の話(※2)」など、
それを裏付ける逸話がいくつも残されております。
そして、徳川をはじめとする有力大名たちの目を盗み、
秘密裏の内に莫大な軍資金が熊本城へと運び込まれたのでした…。

しかし、清正公の突然の死により、豊臣家再興計画が実行に移されることはございませんでした。同様に、軍資金の所在も歴史の闇へと消えることとなったのです。
なぜなら、軍資金にまつわる全てにおいて清正公自らが陣頭指揮をとり、なおかつ関わったわずかな者たちは、主君の後を追いその命を絶ってしまったからです。
清正公より軍資金の書を託された我ら一族でさえ、その所在は存じません。
また、書は清正公ご自身が考案された難解な暗号で記されているため、
軍資金の在り処を特定するのは容易なことでないはずです。
ただ、皆様であれば必ずや見つけられると信じております。
時代は移り変わり、もはや豊臣も徳川もございません。
熊本城とこの熊本の地を愛する皆様に軍資金を見つけていただければ、
きっと清正公も本望であるに違いありません。

稀代の名君・加藤清正公の意志を受け継ぐ、熊本城一口城主の皆様。
清正公が未来に託された希望(軍資金)を、必ずや見つけ出してください!

(この物語はフィクションです)

※1…熊本城本丸御殿の大広間でも一番格式の高い部屋。この部屋には、中国の漢の時代のお話で、胡の国に送られた絶世の美女、王昭君の物語が描かれていた。この「昭君の間」は、実は「将軍の間」の隠語であるという説がある。秀吉の遺児・秀頼に万が一のことが会った場合、清正公は熊本城に秀頼を迎え入れ、徳川に背く覚悟があり、そのための部屋が「昭君の間」だという。また、この部屋には抜け穴伝説も残されている。

※2…小天守は意志額の構造等から大天守成立後に増築されたことが分かっている。この増築は、秀頼のためであると言われている。小天守には付書院や床設けられ、洗面所や控えの間、衣冠を調える装束の間などとして使える部屋を備えており、秀頼の「お成り」に十分に耐えうる構造になっていた。

※千葉一族…文明年間(1469-1487年)に肥後守護菊池氏の一族が築いた千葉城に由来。

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